一日二回、時計の速さを切り替える ― 二挺天符
十六世紀の末、宣教師たちとともに、ヨーロッパの機械式時計が日本にやってきました。歯車と脱進機(だっしんき)を備えたその機械は、針がいつも同じ速さで回ります。つまり、長さの等しい時間を刻むようにできている。ところが、受け取った日本は、昼と夜で一刻(いっとき)の長さが違い、しかも季節ごとに伸び縮みする不定時法(ふていじほう)の国でした。等速で回る機械と、伸縮する時間。このかみ合わない二つを、江戸の時計師はどう折り合わせたのでしょう。
等速の心臓 ― 脱進機という「敵」
まず、相手を知っておきましょう。機械式時計の心臓部が、脱進機です。
錘(おもり)が落ちる力も、ぜんまいがほどける力も、放っておけば一気に出尽くしてしまいます。これを少しずつ規則正しく小出しにするのが、脱進機の役目です。歯車の歯を、爪が一つ止めては放し、止めては放す。その「止めて、放す」のリズムを刻むのが、天符(てんぷ)と呼ばれる調速のおもりです。和時計の天符は、左右に張り出した横棒が、振り子のようにゆっくり往復する形をしていました。チクタクという時計の音は、この爪と歯のせめぎ合いの音にほかなりません。
肝心なのは、この仕組みが原理として等速だということです。天符の振れの速さが変わらない限り、針は同じ速さで回り続ける。一秒を百年刻んでも飽きない律儀さ——それが脱進機の取り柄であり、不定時法にとっては、まさにそこが問題でした。江戸の一刻は、夏の昼には二時間半ちかく、冬の昼には一時間半あまりと伸び縮みします。等速の針に不定時法の文字盤をあてがっただけでは、針と刻はたちまちずれていってしまうのです。
力業の第一歩 ― 一挺天符
このずれを吸収する方法は、論理的には二つしかありません。針の速さのほうを昼夜で変えるか、針は等速のまま、文字盤の目盛りのほうを動かすか。この記事でたどるのは、前者——速さを変える道です。
天符の振れの速さは、棒天符に吊るした小さな分銅の位置で決まります。分銅を回転の中心から遠ざければ振れはゆっくりになり、針は遅く進む。近づければ速くなる。ならば、昼と夜で分銅の位置を変えてやれば、長さの違う昼の刻と夜の刻を、それぞれ正しく刻める——これが一挺天符(いっちょうてんぷ)式の発想です。
単純明快ですが、運用は過酷でした。明け六つに一度、暮れ六つに一度、毎日二回、誰かが時計の前に立って分銅を掛け替えなければなりません。一年なら七百回あまり。旅にも出られず、寝坊も許されない。時計が人に仕えるのではなく、人が時計に仕えている状態です。しかも、昼の刻と夜の刻の長さは季節とともに動くので、「昼用の位置」「夜用の位置」そのものも、季節が進めば見直さねばなりません。毎日の掛け替えと、季節ごとの掛け位置の更新。この二重の手間こそが、次に来る機構が解くべき宿題を、これ以上なくはっきり示していました。
機械が、自分で乗り換える ― 二挺天符
この苦行を機械に肩代わりさせたのが、二挺天符(にちょうてんぷ)式です。
文字どおり天符を二本——昼用と夜用——備えます。そして明け六つと暮れ六つが来ると、機械内部のカムが作動して、働く天符が自動で切り替わるのです。切り替えの瞬間を時計自身が知っていて、自分で乗り換える。時刻を表示するだけだった機械が、時刻に応じて自分の挙動を変える機械になった、ということです。昼のあいだは昼用の天符が遅い速さで、夜のあいだは夜用の天符が別の速さで時を刻む。毎日二回の掛け替えは不要になり、残る人手は、季節の進みに合わせた分銅の微調整——二十四節気ごと、およそ十五日に一度、年に二十四回——だけになりました。
ここで、模式図を見ながら一つ、よくある誤解を解いておきましょう。時代劇に映る和時計は、しばしば二本の天符が同時にせわしなく振れていますが、あれは誤りです。二挺天符は昼用と夜用の交代制で、一方が働いているあいだ、もう一方は止まっています。もし二本が同時に動いたら、時計は二つの速さで進もうとして破綻してしまう。止まっているほうの天符は、出番を待つ控えの選手なのです。
二挺天符には、開発の時期を物語る物証もあります。現存する最古の二挺天符式時計には、安永二年(一七七三)の銘が切られています。これより前に存在しなかったという証明にはなりませんが、少なくともこの年までに完成していたことの、動かぬ証拠です。機構の系譜を、伝承ではなく現物の紀年銘でたどれるところに、和時計研究の確かさがあります。
外科手術と、着せ替えと
ここで、冒頭に挙げたもう一つの道——「文字盤の目盛りのほうを動かす」道——と比べておくと、二挺天符の性格がはっきりします。
速さを変える二挺天符は、調速という時計のいちばん深い部分に手を入れる、いわば外科手術です。効果は根本的で、機械が自分で昼夜を刻み分けてくれます。けれど、そのぶん作りは複雑になり、狂いの種も増える。一方、文字盤の駒の間隔を季節ごとにずらす割駒式(わりこましき)は、機構には触れず、表示という表層だけを操作する着せ替えです。作りは簡単で狂いも少ないかわりに、駒を動かす人手が残ります。
どちらが優れている、という話ではありません。江戸末期に台時計の主流となったのは、じつは作りの簡単な割駒式のほうでした。けれど、二挺天符が示した「機械が自分の挙動を時刻に合わせて変える」という発想は、より高度な自動化への扉でした。深部に手を入れる難しい道と、表層で済ませる賢い道。和時計の二百年は、この二つの解法をそれぞれ磨き、やがて組み合わせていく歴史だったのです。
なお後期には、棒天符に代わって、ヒゲゼンマイで調速する円天符(まるてんぷ)と呼ばれる方式も使われるようになります。和時計の心臓部にも、ゆっくりとですが世代交代はありました。
「等速からの、制御された逸脱」
おもしろいのは、和時計の脱進機そのものは、最初期に伝わった冠型(かんむりがた)の形式から、ほとんど変わらないまま幕末を迎えたことです。同じ時期のヨーロッパが脱進機を次々に改良し、振り子やヒゲゼンマイで精度を桁違いに高めていったのとは対照的です。
これは怠慢ではなく、力点の違いでした。ヨーロッパの時計師の課題が「より正確な等速」だったのに対し、江戸の時計師の課題は「等速からの、制御された逸脱」だったのです。心臓は古いままでよい。勝負は、その周りで行われました。二挺天符とは、等速にしか動けないはずの機械に、昼と夜という二つの速さを与えた——いわば、まっすぐにしか進めない道具に、季節を読ませる試みでした。
そして、この「毎日二回から、年二十四回へ」という自動化は、まだ途中の段階にすぎません。残った年二十四回の手直しさえも、やがて機械そのものに肩代わりさせる職人が現れます。人手をゼロにした七ミリの歯車の話は、また別の記事で。等速の機械に季節の刻を語らせた江戸の工夫は、いまも手のひらの上でたどることができます。
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