暮らし言葉

音が時刻だった都市 ― 鐘で起き、鐘で店を閉じた江戸

「花の雲 鐘は上野か浅草か」。松尾芭蕉が詠んだこの句の鐘は、法要の鐘ではありません。江戸の町に時刻を告げる「時の鐘」です。桜の咲き満ちる空を、どこかの鐘楼から時を知らせる音が渡ってくる。上野の寛永寺か、それとも浅草寺か——音の出どころを聞き分けられるほど、鐘の音は江戸の暮らしに溶け込んでいました。時計を持たない庶民は、どうやって時を知ったのか。答えは、音だったのです。

時計を持たない百万都市

まず、この都市の特殊さを確かめておきましょう。時計は高価な品で、大名や豪商のものでした。江戸の圧倒的多数の住人は、時計を一度も持たないまま一生を過ごします。それでも百万都市の暮らしが時刻で回っていたのは、時の鐘という「音のインフラ」があったからです。

考えてみれば、全員が時計を持つ必要は、そもそもありません。誰かが正しい時刻を一つ定め、それを都市の全員に同時に配る仕組みさえあれば足りる。その配送手段として、江戸が選んだのが音でした。音には、時報として見事な特性があります。昼夜を問わず届く。雨でも曇りでも届く——日時計が使えない天気でこそ時報の需要は高まるのですから、これは決定的です。読み書きの能力を問わず、寝ている者の耳にすら届く。そして一打の鐘は、何百、何千の耳に同時に届くので、都市全体が同じ瞬間を共有できる。

明け六つの鐘で商家の大戸が開き、奉公人が動き出し、職人が道具を取る。九つの鐘で昼餉、八つの鐘で一服、暮れ六つの鐘で店じまい。鐘の音は単なる情報ではなく、百万人の身体を同じ拍子で動かす、都市の脈拍でした。しかも、鐘が告げるのは季節で伸び縮みする刻ですから、鐘と鐘の間隔そのものが季節とともに変わります。夏の昼、九つから八つまでは二時間半ちかく空くのに、冬の昼なら一時間半あまりで次が来る。江戸の住人が季節の伸縮を「知識」ではなく「身体感覚」として生きられたのは、この音の間隔のゆらぎを、生まれてからずっと浴び続けていたからにほかなりません。

捨て鐘三つ ― 聞き手のための作法

時の鐘の撞き方には、聞き手のための工夫が織り込まれていました。

まず「捨て鐘」です。本番の打数に先立って、三つ、鐘を撞く。これは数に入れない予告の三打で、「いまから時刻を知らせる」という都市全体への合図でした。鐘の音は、いきなり聞こえてくれば何打目か分かりません。三打の前置きがあれば、聞き手は耳の構えを作り、四打目——本番の一打目——から落ち着いて数え始められる。現代の通信技術が信号の頭につける同期符号と、役割はまったく同じです。

本番の打数は、刻の数——九つなら九打、八つなら八打——です。そして、ここにも工夫がありました。打数は、初めはゆったりと長い間合いで撞き、だんだんに間隔を詰めていく。こうすると、途中から聞き始めた者にも「いま序盤か終盤か」の見当がつき、数え落としに気づきやすい。九つと四つを取り違えれば二時間半の差になるのですから、間合いの設計は実用上の大問題でした。これが一日十二回、昼も夜中も、毎日繰り返されます。聞き手のほとんどが寝静まった真夜中の鐘にも、手は抜けません。誰がどの鐘を頼りにしているか、撞き手には分からないからです。撞く側には厳しい規律が課され、遅れれば重い処罰が待っていました。リレーの仕組み上、一か所の遅れが下流の鐘すべてを遅らせ、都市の時刻そのものを狂わせるからです。

「九か所」は、本当だったのか

ところで、江戸の時の鐘は「九か所」と語られることが多いものです。本石町、上野寛永寺、市ヶ谷八幡、赤坂、芝増上寺、目白不動、浅草寺、本所横堀、四谷天龍寺——御府内をぐるりと取り囲む配置です。

けれど、ここで立ち止まる必要があります。近世史家の浦井祥子(うらい さちこ)が、寛永寺所蔵の史料などから明らかにしたところでは、その数は固定ではありませんでした。鐘の数は時期によって増減し、十か所以上あった時期も確認されます。幕府の公文書からは、ある時点で公認の時の鐘が十か所あり、目黒や巣鴨といった当時の江戸の縁辺にも鐘のあったことが分かっています。鐘の分布が郊外へ広がっていく過程は、そのまま江戸という都市が膨張していった記録でもあります。ですから「九か所」とは、ある時期の姿か、代表的な鐘を数え上げた便宜の数字であって、二百数十年を通じた定数ではない。この記事が「通説の九か所」という言い方を守るのは、このためです。

時の鐘の江戸マップ(通説の九か所の位置関係を示す模式図)。リレーの先頭には本石町説と上野寛永寺説があり、撞き順は一本に確定しないため、順路の矢印は描いていない。設置数も時期により増減し、定数ではない。

第一走者は、どの鐘か

では、その音のリレーの第一走者は、どの鐘だったのでしょう。じつは、ここにも諸説があります。

ある解説は、先頭を本石町とします。日本橋本石町は、二代将軍秀忠の時代に置かれた江戸最初の時の鐘と伝えられ、川柳に「石町は江戸を寝させたり起こしたり」と詠まれた、町方の中心の鐘です。江戸最古ゆえに起点だった、という説です。一方、別の概説は、先頭を上野寛永寺に置きます。その音を聞いて市ヶ谷、赤坂、芝の寺々が続いた、という筋です。将軍家の菩提寺としての権威を考えれば、これも筋が通ります。

本書(このもとになった教養書)は、どちらかを断定する材料を持ちません。そして、おそらく断定しないことのほうが、実態に近いのです。鐘の数自体が時期によって変動していたのですから、リレーの順序もまた、二百数十年のあいだ一度も変わらなかったと考えるほうが不自然でしょう。初期には最古の本石町が、寛永寺の威容が整ってからは上野が——というように、時代ごとに音の地図が描き替えられていったのだとすれば、資料間の食い違いは矛盾ではなく、それぞれ別の時代のスナップショットなのかもしれません。これは推測です。ただ確実に言えるのは、「どの鐘が最初か」を一つに決めたがるのは現代人の癖であって、江戸の住人にとって大事だったのは、いつもの刻限に、いつもの方角から、いつもの鐘が聞こえてくることだった、ということです。

音は、すぐには死ななかった

その音が止む日は、唐突にやってきます。幕末から明治初年、神仏分離の波が寺院の体力を奪い、明治のはじめの改暦が不定時法そのものを廃し、安価な輸入時計が懐や柱に入り込んでくる。本石町の鐘も、改暦に先立って撞かれなくなったと伝えられます。

けれど興味深いのは、音の時報そのものは、すぐには死ななかったことです。新政府は、正午を空砲で告げる午砲——俗にいう「ドン」——を導入しました。鐘から大砲へ。音で都市を同期させるという発想は明治にも引き継がれ、消えたのは音のほうではなく、その音が告げていた不定時法の刻だったのです。考えてみれば、学校のチャイムも、昼を告げるサイレンも、「音で集団の時間を揃える」という発想の末裔です。鐘を聞いて時を知る——その身体の記憶は、案外深いところに眠っているのかもしれません。耳をすませば、捨て鐘三つに続く江戸の鐘の音を、いまの空でもう一度、聴くことができます。

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